gn to t.Y. 覚え書き

gn to t.Y.

覚え書き

仮題:バイバイ・ディアナ 11

【11回目】

 ♭ 9 部屋での会話—生まれた場所

 マリアは部屋の隅にゴキブリを見つけた。彼女は高性能なノズルが装備された殺虫剤を遠くのゴキブリめがけて振りかけた。噴霧された薬液の匂いがカンイチの鼻もとを刺激した。カンイチにとって悪い匂いではなかった。
 カンイチがいった、「なあ、マリア——」
「何?——」マリアの声は血がにじむのを感じるほどに乾いていた。それでも彼女はタバコを吸いたがった——そして彼女はフィルタが焦げる臭いのするまで煙を吸った。彼女の肺は日増しに吸引力を増していた。
 カンイチがだるそうにいった、「タバコばっかり吸ってるんじゃないよ」
 マリアは笑う前に一度煙を飲んだ。紫色の煙は白く変わって吐き出された。「あいつ来ないわね」
 カンイチは何もいわなかった。だが彼は信じていた。『たぶん』ゼンジは来るだろうと。
 わたしも信じたことがあった。マーレーも信じたことがあった。それは今でも信じ続けられていた。その信じたものとはいったい何か?——それは自分自身である。ああ、なんとあつかましい化石になりきれない老人たちであろうか!
 エミは死んだように座っていた。彼女の足はソファの一部になっていた。彼女の足は球根だった。そしてその身体は茎だった。花は静かだがその茎のなかはみずみずしい液体でいっぱいだった。彼女は化石ではなかったが、トマトでもなかった。
 エミがいった、「来るわ」
 マリアはエミがいうのなら来るだろうと思った。診察台の上で転がっていたナミオはいつのまにか寝てしまっていた。
 ドアをノックする音が聞こえたとき時計の針は七時半を指していた。
 マリアがドアを開けた。そこにはコートを着たゼンジの姿があった。ゼンジは人差し指の背で鼻腔をふさいだ。
「臭いな——殺虫剤でも吸ってるのか?」誰の指図も受けず、ゼンジが部屋のなかに入っていった。図々しいやつ——ゼンジの背中にマリアが不満そうな顔を投げた。
「そんなもの吸うわけないわ」
「しかしほんとに臭い——」ゼンジの目に入ったのは診察台の上で口を開けて寝ているナミオの姿だった。そしてエミの姿、——最後に認めたのは床に座り込んでいるカンイチの姿だった。マリアはカンイチの背中を見つめていた。それは愛情深い眼差しではなかった。
「何で診察台があるんだ?」とゼンジがいった。誰も答えなかった——たぶんナミオが起きていればよろこんで横やりを入れたにちがいなかった。
 ゼンジには周りの無反応を受けいることしかできなかった。彼は手を軽く挙げて納得顔を見せると、床に座り込む男を見下ろしながらいった、「カンイチ——だっけ?」顔を上げたカンイチの目とゼンジの目が合った。二人はしばらく互いの目を見続けていた。ゼンジがいった、「君の母親は管理センターにいるよ」
 カンイチの顔が赤みを帯びた。彼は立ち上がった。「それはどこだ? どこにある——どこに行けばいいんだ」カンイチは背筋を伸ばしゼンジに近づき貼り付くように立った。「いったいどこにあるんだ——いってくれ!」
 カンイチの声にあせりはあったが怒りはなかった。ゼンジはカンイチの顔のなかに懇願する目を見た。
「場所はわからない」ゼンジがいった。彼は下を向きたかったが向かなかった。マリアがいった、
「ほら、当てにならないでしょ」
 ゼンジが冷静にいった。「いや、わかる。わかるはずだ——今日管理センターにいる女性と話した。彼女が教えてくれるはずだ」
「それって誰よ。何て名前なの」マリアが挑発するようにいった。
「その女性には以前——もう七年ほど前の話しだが——」ゼンジは言葉を切り、そしていった、「その人の名は『アヤベ・クミ』というんだ。彼女は——まだ七年前のままなら——『博士』だ」ゼンジは博士である彼女を信用していた。だからこそ口に出た言葉だった。
 マリアはふてくされ気味だった。ゼンジが答えることができなかった場合の言葉はたくさん用意していたが、逆の場合には言葉を失った。彼女は腕を組んだ身体を持て余した。その時——ささやくような声がした。
「わたしのママよ——」そういったのはエミだった。彼女の視線は定まっていなかった。
「それってほんとうなの?」マリアがいった。エミは頷いた。
「わたしのママの名前はアヤベ・クミ。そしてわたしの名前はアヤベ・エミ。彼女はわたしのママよ」
 ゼンジが思い出したようにいった、「あの人はきみのママなのか」ゼンジの腐りきった頭のなかに七年前のクミの姿がよみがえった。場所はホテルのバーだった。『でも子供はいるの。今年九歳になるわ』彼女のメガネは素敵だった——
 カンイチがエミの前にしゃがみ込み、彼女の手をつかんでいった。「エミ、おまえの母さんはどこで働いているんだ——」
 エミの言葉は周囲の気持ちを裏切るものだった。「——知らないわ」
 カンイチは肩を落とした。彼はゼンジの顔を見た。「なあ、ハマグチ? さん——あんたエミのママが教えてくれるといったよね」
 ゼンジは黙って頷いた。彼には自分でもわからない自信があった。カンイチがいった、
「いつ教えてくれるんだ——」
 ゼンジがいった、「——向こうからまた返事が来るはずだ。だが——」カンイチがゼンジの言葉を切った。それはゼンジのいおうとしたことそのものだった。
「こっちから訊いてくれ、オレは待っちゃいられない——ここまでわかっているんだ」
 ゼンジは少しの間考え込んだ。そしていった、「端末があれば——」
 カンイチがいった——「この時間じゃ図書館は閉まってる、それに役所も」
「オレの職場に端末はあるが、それを使うにはウーの手はずが必要だ」ゼンジが自分の無能さを感じながら溜息をついた。
「エミ、なんでおまえは何も知らないんだ? おまえの母親なんだぜ」カンイチが苛立ちを押さえながらいった。
 エミの答えはこうだった、「わたしが九歳のときにママは消えた。だからそれから後のことは何も知らない。それに今はもうママじゃない。母親じゃない。——そういうシステムでしょ」エミはカンイチを見据えた。「だからあなたは母親を見つけたいようだけれど、あなたが捜してしているのは他人でしょ——今のシステムじゃ」そして最後にいった、
「わたしたちって生まれたところを知らない人間なの。誰も私たちが何かから生まれてきたことを証明してくれない。わたしたちっていきなり現れていつかは消える恐竜なのよ」

 ♭10 訪日予定者情報

 人数のわりに静かな部屋に騒々しさを持ち込んだのは売笑婦のノリコさんだった。
 彼女は好きなだけノックをし、勝手にドアを開け、そして自分の部屋のように駆け足で入り込んだ。それは彼女がお客の部屋に入る場合のバリエーションのひとつだった。
「ああ、あんたもいたの?」ノリコさんが立っているゼンジを見ていった。彼女は一枚のビラをゼンジの前にかざし、「これ見てよ、あの子が来るの! ディアナちゃんよ! わたしうれしい!」ノリコさんはマリアに抱きついていった、「うれしいわ! わたしディアナちゃんを見たかったのよ!——テレビや本ばっかりじゃつまらないわ!」
「なんなのよまったく——」マリアが身体に巻き付いたノリコさんの腕をやっとの思いで振りほどくと彼女が手にするビラをとろうと手を伸ばした。しかしビラをとることはできなかった。ビラをとったのはゼンジだった。
 ゼンジは破れかかったビラを見た。
〈火星からの秘密のゲスト!〉
 ゼンジはそのビラを見つめた。ノリコさんの声が聞こえた。「火星のゲストっていったらあの子だけよね!」ゼンジは呆然と立ちつくしていた。「これであんたも娘に会えるわね!」
 マリアがいった。「あんたほんとうに火星人の父親なの?」マリアはそういって笑った。「あんたバカじゃないの? てんでおかしいわ——あんたがあの子の父親だったらあの子はいったい何なのよ? あの子は何で火星人なわけ? バッかじゃないの!」そしてノリコさんを見た。「あんたもバカよ。こんな男のいうことを信じるなんてさ」
「この人がいうんだからそうなんじゃないの?」ノリコさんがいった。
「ほんとにお人好しね」マリアは改めてノリコさんの姿を見た。そして顔をしかめると、「——それにしてもその格好!」マリアは溜息をついた。「あんたあいかわらずね」
 ノリコさんの合成繊維のカツラは紫色に変わっていた。大腿を露出した股に切れ込む赤色のパンツの上にはルビーをはめたへそが浮かんでいた。盲腸のあたりには毛を逆立てたクマの入れ墨があった。その上にある彼女の豊満な胸はティッシュのような肌着で覆われていた。
「いいでしょ」ノリコさんはそういってニッコリ笑った。ちっとも良くない——マリアはそう思った。世界中の誰もがそう思うだろう。ノリコさんのお客様以外の誰もが。
「このビラはどこで作っているんだ?」ゼンジはそういいながら、ビラをコートのポケットに押し込んだ。
 ノリコさんが口をとがらせていった、「ロマンじゃないの? こないだ店に行ったとき支配人が配ってたじゃない——」
「そうか——」ゼンジがいった。「オレはロマンに行く」
「え! 行くの!」とん狂な声がした。ゼンジがその声をたどると、目に入ったのは診察台の上で身体を起こしたナミオだった。彼の目は起き抜けとは思えないほどギラギラと光っていた。ゼンジは思った——こいつは薬を飲んでいたな。ナミオがいった。「ボクも行くよ!」
「何よナミオいつの間に起きたの」マリアがいった。
「たった今さ」ナミオがいった。「それからカンちゃん、端末ならロマンにもあるよ——支配人が使ってるやつ」
 ゼンジがナミオを凝視していった、「何で知ってるんだい?——普通は誰も持ってないはずだが——」
 ナミオが袖口で鼻を擦りながらいった、「あそこの支配人は特別なんだ。だってあの人スパイだからね」
「スパイ?」ゼンジが首を傾げた。「そりゃまたどういうことだ?」
 ナミオも不思議そうな顔をした。「え?——ボク誰でも知ってると思ったわ。それに——」ゼンジが『それに何だ?』と訊くと、「——あの人は移民でしょ」
「誰がそんなこといったのよ」マリアがいった。
「ボク見たのよ。あそこの支配人があぶりだしの紙やナプキンを持って歩いてるの」
 ナプキン? あぶりだし?——そりゃいったいどういうことだ?——「何をいってるんだ?」
「だから通信だよ。支配人が女の子の入った後のトイレにすぐ入るの。だからボク、一度支配人が入る前にトイレに入ったのよ。そしたらナプキンが落ちてたの。それには色々なことが書いてあった。色々な数字よ」
 マリアがいった、「それで?」
「だからそれが通信なんだ。支配人はそうやって店の子やお客さんが流す情報を横取りしてるのよ」
 マリアはお手上げという体だった。ゼンジはナミオのいうことはたぶんほんとうなのだろうと思った。カンイチはナミオを哀れに思った。エミは聞いていなかった。
 ナミオがいった。
「おじさんは防諜部なんだから、そんなことくらい知らなきゃだめだよ」
「オレはね代理なの。難しいことはよくわからないんだな」

 ♭11 行動のための確定情報

 いちばん最初に店に入ったのはカンイチだった。
「いらっしゃいシンタロウさん! あら今日はまた大勢ね」マスターは両手をめいっぱいに広げてカンイチやゼンジたちを迎えた。
「支配人はいるか——」カンイチがそういった。続いてゼンジが自分の肩にかかったノリコさんの手を振りほどき、前にいたマリアとナミオを押しのけ、
「支配人だ——別のフロアか? 早く案内してくれ」彼はコートのポケットのなかで効き目があるようには思えない首相官邸専用のIDカードを握りしめていた。ずいぶん前、官が自分の権威をひけらかすことは自分のメガ感性をひけらかすことと同じだった。彼らの終末は知恵のあるぶん恐竜が滅びるほど歴史的ではなかった。
 マスターは困ったピエロだった。彼は「わからなーい、わからなーい」と、とん狂な声をあげながら踊るように足をまごつかせた。「支配人はいそがしいの!」
 マスターは五人をテーブルに誘う仕草を見せる。マスターが彼らに向かってたなびかせる手がうねり、その先についた指は波打った。マスターの身体はバンドの一部になっていた。彼の心臓はクラリネットでできていた。
「いいから連れてけってんだ——」カンイチがマスターの細くいやらしい腕をつかんだ。そして背中にねじ曲げた。マスターが悲鳴をあげた。その声は実に楽しそうだった。
「——あっっっ、痛い痛い!」
「カンイチ、やめろ——」ゼンジはカンイチの腕を押さえた。それでもカンイチはマスターの腕を放そうとはしなかった。そして「マスター教えてくれ——支配人はどこだ」彼はコートのポケットに手を突っ込みぐしゃぐしゃになった黄色いビラをマスターの目の前に突きつけた。「これは誰が作った?——」
 マスターはそれを横目で見た。「何それ? 鼻紙?——ゴ、ゴミ箱は外よ」
「ゴミじゃない、おまえらが後押ししてるクソったれ教団だ。支配人が作ったんだろ——そうだろ!」
 ナミオはすべてが楽しかった。彼は『次はいったい何だろう!』——そんな好奇心にかられながらカンイチとゼンジ、そしてマスターを見た。——今度は殴るんだぞ、きっと殴るんだ——
「あーらナミオ! 元気にしてる?」女が声をかけた。彼女は頭に大きな羽をつけていた。銀色のスパンコールに包まれた丈の短いワンピースが照明のなかでぎらぎら光った。
 その女はユリだった。肉が余り気味の彼女はナミオに向かって腰を振った。——そうナミオを初めて男にしたヒト科の女性だった。
 わたしがわざわざ『ヒト科』とつけ加えるのは、そうでない人もいるからである。
 ナミオの顔が真っ赤になった。マリアがナミオを冷やかす——「何照れてんのよナミオ、あんたのママでしょ」
 ナミオが女言葉でいった、「そんなんじゃないわ!」
 ユリはしょうがないわねという顔でマリアを見た。「まあ良いわ——何せ『最初の女』なんだから。でもなんなのマリア——」ユリはマスターにからむ二人を見て「——このお二人は?」
 腕を組んだマリアがいった、「支配人捜してるの——あんた知ってる?」そして彼女はタバコをくわえた。彼女の肺は穴が開きかけていた。
「まあ何て簡単な質問! 支配人なら三階よ」
 カンイチがいきおいよくマスターの腕を放り投げた。その拍子でマスターは尻もちをつきフロアを滑った。
 マリアがいった、「三階のどこ?」
 ユリがいった、「エレベータが開いたらすぐ支配人室よ」そしてエミを見た。「今日は仕事?」

 アヤベ・クミの心は複雑だった。心の複雑さは気分でも変わる。彼女の気分はどちらかというと悪い方だった。彼女は自分の指を見た。じっと見つめた。しわの一本、そしてまた一本がはっきりと浮かび上がってきた。そしていつもそうするように机の引き出しを開け、そして一枚の写真をとりだした。そこには八歳のエミが写っていた。白いブラウスに紺のブレザーの制服を着たエミの顔は笑っていたなかった。
 クミは思った、——この娘はいつも笑っていなかった。
 エミに父親はいなかった。
 コーヒーでも飲もう——彼女はエミの写真を手に洞窟のようなセンターの廊下に出た。膝までのびた彼女の白衣には染みが着いていた。センターは年に二回しか白衣の支給をしない——白衣の脇下には糸でつくろったあとがあった。
 『休憩室』のプレートの下がっているドアに立ったとき彼女が聞いた音は話し声ではなく、何かが回っている電気音だった。すべてが自動ディスペンサーで運営されている部屋に人気はなかった。六つの白く丸いスチール製のテーブルと、湾曲した白塗りの鉄棒で型づくられたイスが散らばっていた。そのイスの様子は『後ろの正面だーれだ』という合図で子供たちが制止した姿に似ていた。
 人の感情を刺激しないようにと配慮された結果というアイボリー色で塗られた壁にそって数台のディスペンサーが並ぶ。彼女はその中の一台の前に立つと自分のIDカードでコーヒーを買った。
 コーヒーは苦かった。当たり前だった——それはカフェネグロだったから。テーブルの上には空になった三つのカップがあった。クミは夜の仕事にのぞむときよくネグロのコーヒーを飲んだ。口の中を真っ黒に染まらせるコーヒーは彼女の目をよみがえらせるとともに以前に行った中南米への旅行を思い出させた。その時の彼女はガラパゴスにいた。ガラパゴスには研究材料が多い。

 最初に叫んだのはゼンジだった。「支配人!」
 続いてカンイチがいった、「端末を貸してくれ——」第一声をゼンジに出し抜かれた彼の声にはいきおいがなかった。
 支配人は踊りの最中だった。ゼンジは思った——この店の男はみんな踊ってるのか?——ゼンジにとっての救いは支配人のより一回り小さな机で帳簿をつけている副支配人の姿だった。彼の机の脇にはまだのり付けされていない封筒が山積みにされていた。それは店の女性たちのための給料袋だった。
 答えたのは副支配人だった。「あなたがたは?——」彼は五人を見た。何人かは見かけたことのある顔だった。ゼンジだけは初顔だった。彼は思った。——このせまい部屋になんという数のお客さんだ、イスが足りないぞ!
「端末を貸してほしいんだ」——カンイチはそういいながら部屋を見回した。カンイチの目に入ったものは大きな机と小さな机、雑誌が置かれたテーブルと古いイス、そして壁にかかった女の絵だけだった。その何もかもが古かった。
「端末? こ・こ・に・は・な・い・よ♪」支配人はリズムに乗って返事をした。彼のステップを刻む足は休むことがなかった。
 ナミオがマリアの後ろから顔を出していった、「うそよ、支配人は持ってるもん」
「だまってなさいナミオ、あんたが口を出すとろくなことにならないわ」マリアがいった。
「だって支配人は——」いいかけたナミオの口をマリアがふさいだ。そしていった「だまってんの!」
「ほんとうにないのか?」ゼンジがいった。そして実際に端末が部屋に見あたらないことに苛立ちを感じた。天井さえも見た。綿のようなクモの巣が天井のところどころにぶらさがっていた。カンイチが部屋のなかをうろついた。
 支配人がステップを止めた。「今日のあなたたちは——」彼は肩で息をした。「——お客様? それとも押し入り強盗?——♭」支配人は背広の内ポケットからラップされた葉巻を取り出した。彼は小さな指先でていねいにラップをはいだ。ラップをはぐごとにたちのぼる香りに支配人は笑みを浮かべた。
「こいつはいい香り——どんな下品な部屋でもこれ一本でとてもエレガントになるの——」支配人はむき出しの歯で葉巻の先をかじって唾といっしょに吐き出し、マッチで火を点けた。そして深く煙を吸いこむ。そのすべての動作がエレガント——いやのろかった。それがカンイチたちを苛立たせた。
「——ほんとうにおいしいわね」支配人が至福の顔を見せる。
 副支配人がいった、「お茶はいくつ出しましょうか?——」
「いらないんじゃない? 捜しものが見あたらなければすぐ帰るでしょ」支配人はそういって五人を見た。「ただでさえ——教団のことでうるさい電話もあるし。ほんとうに迷惑なのよ」
 教団——ゼンジがふと我に返り、「これはあんたが作ったのか?」——そういって支配人に黄色いビラを見せた。支配人は目を丸くした。驚いたわけではなかった。彼はおどけたのである。
 支配人がいった。「そうよ。うちで作ってるわ。——それがどうかした?」
 カンイチが支配人の顔にビラを突きつけた。そしてビラのなかの宣伝文句を指さした。
「あーそのビラ!」支配人は顔を手で隠して手を仰いだ。「ごめんなさい! それは間違いなのよ。この人がね——」彼は副支配人を見た。副支配人は肩を丸めて後ずさりをした。「——この有能な副支配人が間違えて刷っちゃったの。きっと話題をとりたかったんでしょ。ほんとにすいませんね」
 支配人が笑った。「だ、誰がディアナなんか連れてくるものですか!」——支配人がそういったときゼンジの目が光った。
「やっぱり来るのね!」——せまい部屋のなかにノリコさんの歓喜の声が広がった。今度は支配人が驚きのために目を丸くした。
 ゼンジが笑みを見せた。そしていった、
「いや来ないさ——支配人がそういったろう」
 支配人の机に置かれた電話が鳴った。支配人はたじろいでいた。副支配人が受話器をとった。「もしもし——はい支配人室です」その電話は二階のマスターからだった。
——あ、副支配人? どうしましょビビアが来たのよ
「ビビアって——誰ですか?」
——わたしも知らないわ。メトロから来たみたい。前うちに務めてた女の子の知り合いなんだって
「へえメトロねえ、でどうしたんですか?」
——ミゲェルを出せってきかないのよ
「ちょっと待ってくださいね」副支配人は受話器の口をふさぎながら支配人にいった。「なんだかビビアって女性がミゲェルを探しに来たらしいんですけど」
「ビビア?——知らないわね。何? マルセーラの知り合い——なつかしい名前ね。ミゲェルはいないわよ。帰ってもらいなさいよ」支配人は言葉を切り、そしていった。「ああ! 面倒くさーい! わたしが話すわ」

 ゼンジは耳を澄ましていた。彼の耳は感じたのだ——どこかで端末が動いている。それはふと聞こえた。低くてブーンという音——これは相当古い端末かもしれない——
 ゼンジは目を閉じながら頭を動かし音の出所を捜した。どこかで鳴っている——カンイチとマリアが声をかけたが、ゼンジはそれを無視した。ナミオは興味深そうにゼンジの動きを目で追った。
 ゼンジが頭を止めた。そして目を開くとそこには一枚の絵が古びた壁に掛かっていた。ゼンジはその壁の絵の前に立った。
 支配人は電話に夢中だった。「マスター? ミゲェルはいないわよ。あんたその娘には帰ってもらいなさいよ」
 ナミオがいった。「ボクその絵知ってる——モディ、モディ、えーっとなんだったけ」
 ゼンジはその絵を外した。カンイチたちが見守るなか姿を現したのは黄色いヤニで染まった端末だった。端末は壁のなかに埋め込まれていた。
「あるじゃないか——」カンイチがいった。
 ナミオが得意げな顔をした。
「試してみよう」ゼンジがいった。
 支配人が電話を切りゼンジたちを見た。
「あんたたち何やってるの!」
 ナミオがいった、「ちょっと使うだけだよ」
「ダメよ使っちゃ!」支配人はそういいながらゼンジに駆け寄った。カンイチがその小さな身体を抱きとめた。支配人がもがいた。「ダメ! ダメ!——それは秘密なのよ」
 ゼンジが冷静を務めていった、「すぐ終わる——少しつなげるだけなんだ」ゼンジはそういいながらキーを叩きはじめた。そしてつぶやいた——「彼女のナンバーはうろ覚えなんだ」
 ゼンジは何度かキーを叩き間違えた。マリアが近寄ってきた。「じれったいわね覚えてないの?」
「ちょっと待ってくれ、たしか——」ゼンジがキーを叩き終わった。少しの間があいた。モニターに文字が浮かんだ。
〈接続されました〉そして
〈情報を送信しますか?〉——ゼンジは同意を意味するキーをタイプし、情報を打ち込んだ。
「なんてタイプするの? いってよ、わたしの方が早いわ。じれったくて見ていられないの」
〈以下受信者へ——ニイダ・カンコの居場所は? 早く教えてくれ〉

 沈黙——誰もがものをいわず口を閉じていた。返事はない。なぜ返事がなかったか?——クミはその時自分の研究室にいなかったからだ。彼女は休憩室でカフェネグロを楽しんでいた。いくばくかの若かりし思い出に浸りながら。
 若かりしクミは研究に情熱を傾けてきた。それによって自分の知識がたかめられていくことよりも、研究するということ自体が彼女のよろこびだった。それは日々増長していった。
 エミに父親はいない。もともと存在しない。だがその『父親』たるものを知っている——それは肉体を持っていなかった。
 エミの『父親』——エミの『オリジナル』を造り出したとき、クミの研究は頂点に達した。そして『オリジナル』の欠陥を知ったとき、彼女は落ち込んだか?——彼女は更なる』『オリジナル』の改良に没頭した。
 ニッポンに存在すべきすべての複製は彼女がつくり出す『オリジナル』——それは子供の『タネ』——にかかっていた。彼女は表情のない未来を思い描いた。やはり失敗だったのかもしれない——そしてある決断をした。

〈割り込み接続が入りました〉
 どういう意味だ?——ゼンジがいった。
「ちがうところからこの端末に接続してきたのよ」
 支配人はカンイチの腕の中で抑え込まれていた。彼は懸命に、そしてこっけいに足をばたつかせ、動き、カンイチの腕から逃れようともがいた。そしてモニターを覗き込もうと、必死に短い首を無理にねじ曲げた。
〈受信しますか?〉
「——それはわたしの情報よ! 勝手に見ないで!」支配人がいった。
「どうすりゃいいんだ?」ゼンジが独り言のようにいった。人の手紙を覗くほど酔狂ではない。
 マリアがバッカじゃないの? という体でいった、「こうすんのよ」そして受信する操作をした。
〈送信者名 DIANA〉
〈以下受信者へ——バンジ・ブジ・ヨテイドウリヨ〉
〈受信終了〉
 ゼンジがいった、「なんだこれは?」
 知らないわ、とマリアが答えた。二人の顔には自然と当惑が表情が浮かんだ。
 支配人がマリアを「なんでもないわ! わたしの友だちからよ!」
「友だちって誰だよ?」支配人を羽交い締めにしているカンイチがいった。
「教団からよ、ほらわたし彼らのバックアップをしてるでしょ、その連絡よ」
「でも——」ゼンジがいった、「この〈DIANA〉ってのはなんだ?——〈ディアナ〉か?——でもなんで〈ディアナ〉なんだ?」
 支配人が答えた、「それはコードネームってやつ。プロジェクトには誰でも名前をつけたがるのよ——」

 そのとおりである。WC—COMでもプロジェクトが発足するたびに——それがどんなに小さなプロジェクトであろうともひとつのニックネームが与えられた。それはコードネームであり、ぎりぎりまでプロジェクトを内密にしたいがための秘密の暗号であった。たとえば『憂鬱な日曜日』『太ったブタ』『麦芽ミルク』など。マーレーがトランスポータ開発プロジェクトを社内にも内密に始動したとき、彼がそれに与えたコードネームは『試験管』だった。ちなみにセクシャルハランスメントに苦しむ女性たちが発足したその撲滅プロジェクトのコードネームは『わたしに触って』だった。

「ディアナとは関係ないのか?」ゼンジがいった。
「ちがうわ、火星人じゃない——火星人なんかこないのよ。あの子のことじゃないわ!」支配人がいった。彼の身体からはすでに力が抜けていた。力を感じなくなったゼンジの腕は自然と支配人の身体を放していた。
「ちがうよ——支配人」ゼンジがいった。「あの子は地球人だよ」

 ビビアの金髪の根本には黒い新毛が顔を出していた。彼女は乱れた髪を両手で整えた。「ミゲェルはほんとうにいないの?」
「いませんよ。支配人がそういってる」
 ビビアは肩を落とした。彼女の足をぴったりと包むパンツがうねった。彼女はしゃがみ込んだ。長い金髪を前に垂らしながら彼女はか細い声でいった——
「ああ、ミゲェル、——あなたはどこへ行ってしまったの?——おかあさんもいなくなった、そしてあなたもどこにいるのかわからない——わたしはひとりぼっち」
 マスターは悩んだ。彼にとってこういったタイプの女はめずらしかった。彼はいいたい放題の店の女たちに順応しきっていた。そして泣く女への処方箋を持ち合わせていなかったのだ。
 マスターはエミに救いの目を投げた。エミはその目に気づくことなく、しゃがみうなだれるビビアを見ていた。
 マスターがいった、「ミゲェルはときどき店に来るわ——でも今はいないのよ」そして、自らもしゃがみ込んでビビアの肩に手をやりいった。「今日のところは帰ってくれないかしら——」

 ビビアの頭上には彼女と同じようにしゃがみ込み嘆く男がいた。それはカンイチだった。「——なあ、おっさん、なんで返事が来ないんだ?」
 モニターにはなんの返答もなかった。
 マリアがまた送ってみよう——そういって何度もキーをタイプした。返事はなかった。
「ほんとうに届いているのか?——」
 ゼンジの問いにマリアが答えた。「ほんとにバカよ。届いてるわ、届いてなければメッセージが返ってくるの」
「その口を何とかしてくれ」ゼンジがマリアにいった。マリアはしょうがないでしょ、口をとがらせた。マリアいった、
「きっと端末の側にいないのよ——だいたいなんでこんなまどろっこしい手段しかないわけ? 電話番号とか何か知らないわけ?——ほんとにじれったいわ」
「政府じゃ記録に残らないような通信手段はつかわない——」ゼンジはそういってカンイチを見た。「カンイチ——もう少し待とう」
 支配人はあきらめきっていた。
「もう少し待つ?——いいわ、何時間でもいてちょうだいよ。——副支配人お茶ちょうだい」彼はそういって自分の席に戻った。そして改めて葉巻に火を点けた。「ただし邪魔はしないでね、わたし今忙しいの——教団の場所を用意しなきゃならないし。つぶしてもいい工場を見つけるのも大変よ」
「工場?」ゼンジがいった。
「集会場所よ」
 ゼンジは支配人の方に歩み寄り、机の上に腰をかけた。「あいつら工場に来るのか?」
「ええ、そうよ。色々情報はもらっているんだけれど、彼らの集会場はボロボロのバラバラでないとダメなの。美しいものが好きなわたしとしては頭が痛い。でも——」支配人がホッとした顔を見せた。「——友だちがいい方法を教えてくれたわ」
 ゼンジが目で答えを促した。
「工場を滅茶苦茶に壊しちゃえば良いの。その廃虚が彼らの集会場。でも困ったことはいい工場が見つからないのよ」
 ゼンジがいった、「つぶれた工場ならそこらじゅうにあるぜ。このビルだって工場跡だろう」
 支配人が手を振って答えた、「ダメなのよ。良いところ——立地の良いところはみーんな押さえられちゃってるから」
 マリアはカンイチを起こすと、座りなよ、と身近なイスに彼を座らせた。「カンイチ、だいじょうぶよ——そんながっかりしないで」
「やさしい言葉もいえるんじゃないか」ゼンジがいった。マリアはふてくされた。
「いうわよ、わたしは医者なんだから」そして端末に向かうと、「きっと彼女——エミのママ?——は場所を外しているよ」
 マリアはまたキーを叩きだした。彼女の細い指が何度もキーの頭を叩く。
 支配人はマリアがキーを叩く様子——そのなかで特に彼女の指とキーに着目しながら、頭の中で想像した。——キーの頭、キーの頭——キトウ、亀の頭ってか? 支配人はにやりと舌を出した。
 副支配人が湯気の立つ湯飲みを支配人の机に置いた。そして彼は早足で自分の机にもどり、一枚の紙を手に取ると支配人に渡した。副支配人の目は自然とゼンジの方を向いていた。彼は支配人にいった、「これ新しいビラです」
 支配人は彼の差し出したビラを手に取り、満足そうな顔を見せるとそれをゼンジに渡した。「これが新しいビラよ。刷りたてのほやほや」
 ゼンジはそのビラを見た。そのビラの下には小さな字でこう印刷されていた——
『私どもの広告に書かれていた内容に一部誤報がありましたので、ここにそれを訂正するとともに謝罪をさせていただきます。火星人は急病で来れなくなりました。お楽しみにしていたみなさまには誠に申しわけありません』
 ゼンジの表情は変わらなかった。彼はそれをノリコさんに差し出した。「ほら、見ろよ」
 ノリコさんがそれを手に取り食い入るように見た。彼女の反応はゼンジが想像したとおりだった。
「えー! ディアナ来ないの!」彼女はビラを握りしめ天井を仰いだ。「それじゃ前の話しはなんだったのよ」
 支配人が静かに説明した。「もともと火星人のゲストなんていなかったのよ。それをうそともいえないから、とりあえず急病ってことにさせてもらうの」
「あーあ、楽しみにしてたのに」ノリコさんは落胆を隠さなかった。そんな彼女を見て支配人がいった、
「まあ、そうがっかりしないで——それよりどう? あなたこの店で働かない?」支配人はノリコさんの身体を眺めながら、「その紫色の髪の毛、それにほんとうに大きな胸——素敵よ! 食べちゃいたい♪」
 ノリコさんは支配人に向かって舌を出した。そして、「いやよわたし。働かないわ。お金は安いし——それにこういうところは働くところじゃなくて遊ぶとこなの!」
「あーあ、がっかりね。最近は女の子が少なくて」支配人ははなから期待していなかった。だが店の子の年齢が段々上がっていくのは彼にとって切実な問題だった。流れ行く月日の残酷さに支配人は手も足も出せなかった。

 端末が音を出した。それと同時にマリアがいった、「割り込みが入ってる——」
 ゼンジがマリアの側に近づきながらいった、「割り込み?——彼女からじゃないのか?」
「ちがうわ」

〈割り込み接続が入りました〉
〈受信しますか?〉——イエス
〈送信者名 DIANA〉
〈以下受信者へ——計画は異常なし。いわれたとおりボスには気を付けているが普段と変わらず。ボスのボスは出張中。防諜部の勤務は退屈だが楽しい。セニョール・ミゲェルの連絡先わかれば教えてほしい〉
〈受信終了〉

 マリアはゼンジを見た。ゼンジは無表情だった。「あんた防諜部っていってたよね」
「ああ」——ゼンジが答えた。「これはウーだな」
「ウー?——それって誰?」マリアがいった。
 ゼンジがいった、「オレの部下だ」
 マリアが不思議そうな顔をしていった、「あんたの部下があんたを監視してるわけ」
 ゼンジの顔に怒りはなかった。声も冷静だった。「——そうらしいね」
 ゼンジは支配人にいった、「これはどういうわけだ?」——そして振り向いた、「なぜあんたがウーにオレを監視させるんだ」ゼンジはたじろぐ支配人の表情を見てとると、「——心配するなよ。別にオレは怒ってるわけじゃない。あんたを殴る気はない。ただオレは訊いているだけだ——なぜオレを監視するのかってことを」
「それは何かの間違いじゃないかな——」支配人がいった。だが、すぐに自分の言葉を取り消した。「——すまない。お客さん。ただ念を入れたんだ。友だちがいうのよ、あなたが教団の来日する邪魔をするんじゃないかってね。だからウーに頼んだの」
 ゼンジが穏やかにいった。「なぜオレが邪魔をしなくちゃならない」
 支配人が小さな声でいった。「それはあなたが防諜部だからよ——」
「わかった」ゼンジは笑顔を見せた。「オレは監視されるようなことをしていないつもりだ。だから誰がオレを監視しようとかまわない。それが自分の部下だろうと——」彼はなれない葉巻の煙に咳払いをした。「ただ、あんまり勘ぐらないでほしい。オレはあんた方が思っているほど重要な人間じゃないってことだ。オレはあの部の代理なんだ。ただの代理じゃない、『首相官邸内防諜部長緊急臨時代理』なんだ」ゼンジは『緊急』という言葉を強調していった。そして、
「オレはどんな秘密も知っちゃいないんだ」ゼンジは次の言葉を心の中でいった、——『ディアナは火星人じゃない、それは秘密なんかじゃない』
 ゼンジの中で固まりつつひとつの事実があった。それはディアナが来るという事実だった。
 端末が音を出した。マリアがいった——「返事が来たわ」

 アヤベ・クミは休憩室を出る前に新しく作ったカフェネグロの入ったカップを手にしながら研究室に戻った。明かりが点けっぱなしの部屋に入るとまっすぐ端末に向かった。彼女はこれから自分がしようとしていることの手間が省けたことを偶然とは思わなかった。
 端末のモニターには、ゼンジからの情報が届いていることを教えていた。
〈送信者名 ハマグチ・ゼンジ〉
〈受信しますか?〉
 クミの考えは決まっていた。彼女はカップのコーヒーを一口すするとイスに座った。
〈以下送信者へ——返事が遅れました。センターの場所を教えることはできません〉

「教えられない?——」カンイチが呻くようにいった。そしてゼンジに「あんた、どうなってんだよ」と罵るようにいった。
「まてよ、彼女にも立場ってものがあるんだろ」ゼンジは即座に返事を考えた。が、それよりも先にマリアの手が動いていた。
〈以下受信者へ——教えて、お願い〉
〈以下送信者へ——誰ですか。女みたいな返事ね〉
〈以下受信者へ——冗談をいわないで。送信者の代わりにキーを打ってるわ。わたしはマリア。母親を捜しているのはわたしの友だち
 マリアは一度指を止めた。だが思い切るようにしてまたキーを叩いた。
 そしてエミもママを捜しているわ〉
 沈黙が生まれた。沈黙をつくったのはクミだった。エミとは自分の娘の名前だった。彼女は気を落ちつかせるためにカップに口をうけた。苦みが口中に広がった。白衣のポケットにはエミの写真があった。エミは笑っていなかった。
〈以下送信者へ——センターの場所を教えることはできない。代わりに徘徊許可区域を教えることはできる〉
 マリアがカンイチにいった——「あんた、『徘徊許可区域』ってなんなの?」
 ゼンジがいった、「母胎、——いや『母親』が決まった時間に出られる場所のことだ」
「出られる?——って」マリアが怪訝な顔をした。「いったいどんなところにいるってわけ?」
 そういいながらもマリアの指はキーを叩いていた。
〈以下受信者へ——徘徊許可区域を教えて。それにいつ? 何時?〉
〈以下送信者へ——基本的には毎日。時間は不特定。午前もしくは午後。それしかいえない。区域はメトロ入り口のモール街敷地〉
 メトロ?——マリアは心の中で復唱した。彼女はカンイチの顔を見るといった、「カンイチ、あんたのママさんはメトロの側よ——」
 カンイチの顔に赤みがさした。彼の飢えていた目は穏やかになった。「メトロか——」
 ゼンジがいった、「どうやって行く?」
 カンイチがいった、「考えるさ」
 モニターが音を発した。マリアが画面を見た。
〈接続終了——受信者からの解除要求です〉
 マリアがいった、「切れたわ」
 「ああ」とゼンジが答えた。
「あんたどう思う?」
 ゼンジが訊いた、「何が?」
「相手の人ってほんとうにエミのママかもね——」
 ゼンジは小さく頷くといった——「オレもそう思う。君のタイプした言葉になんの返事もなかった」
 自分の机から始終を見ていた支配人がいった、「あんたたちいったいなんなの?」
 ゼンジが笑った。「助かったよ支配人、もう終わった」
 支配人が頷いた。そしていった、「メトロっていってたけど行き方知ってるの?」
 カンイチがいった——「電車に乗れば良いんだろ」そしてゼンジやマリアたちに手で合図した——「出よう」
 支配人は拍子の抜けた顔をした。「——まあそんなところね。でも意地悪な人いるわよ♯」

 ♭12 分岐点

 ゼンジたちはエレベータで二階に降りた。そしてロマン・キャバレーの中に入るとエミを捜しはじめた。彼らの姿を見たマスターがいった、「またあんたたちなの!」マスターはあきらかに自衛のポーズをとっていた。それを見たカンイチがいった、
「心配するなよマスター、もう終わったんだ」そしてあたりを見回し、「——エミは?」
 マスターが目玉を飛び出させながらいった、「あの娘めずらしいのよ——なんせ仕事してるんだから」
「いいからどこなのよ——」マリアがいった。彼女の表情は他の誰よりも厳しかった。子供が見ればまちがいなく泣くだろう。泣かない子供はナミオくらいだった。ナミオは静かにしていた。彼の恐怖なき心はユリの存在を恐れていた。

「ほんとうにミゲェルはどこに行ったのかしら——」ビビアはハンカチで下まぶたを押さえた。隣にはエミがいた。エミはビビアの金髪が珍しく、彼女の手は自然とその髪に触れていた。ビビアがハンカチで涙を押さえながらいった、
「染めてるの。金じゃないわ——ほんとうは黒なの」
 二人は店の女たちのたまり場にいた。店の奥でトイレに近い。消臭剤の香りがした。たまり場を囲む壁の下側にはスチームが付けられていて、それをカバーする出っ張りの上にエミとビビアは尻を降ろしていた。ビビアは爪先を小さくゆっくりとぶらぶらさせては止めを繰り返していた。
 同じ場所にたまっていた女の一人がエミに声をかけた。「なにか飲む?」
 エミは黙ってビビアの方を向いた。ビビアはエミの目を見て少し考えると彼女は鼻声混じりにいった、「ワイン——赤いのある」
「あの人好い人ね」とビビアがエミにささやくようにいった。
 エミがいった。「お客だと思ってるじゃない」
「そうか——」ビビアが鼻をすすった。
 ビビアはエミが訊くまでもなく、自分からミゲェルのことをぽつりぽつりと話していた。その言葉をエミは頷くもなしにただ黙って聴いていた。端から見れば聴いているようには見えなかったが。ただエミはビビアの言葉に問いかけたことがあった。それはこんなものだった。
 ビビア「ほっとするわ、赤ワインって久しぶり」
 エミ 「わたし飲んだことない」
 ビビアは自分の国ではどれだけのワインを消費するかを話し、そのおいしさを語った。自分の国は決して上等なワインはけっして外には輸出しないともいった。そして彼女の不思議はこんなことだった——「なぜニッポンの生産者は上等なものをわざわざ外へ売ったりするのかしら。なぜ自分のために食べたり使ったりしないのかしら?」
 エミがなぜ赤ワインのために口を開いたか?——それは彼女の母親がよく赤ワインをたしなんでいるのを思い出したからであった。母親はクミだった。エミは彼女のことを『ママ』という。ママは外来語かもしれない。俗語として飲み屋の『ママ』などとも使われている。
「あなたいつまでいるの?」とエミがいった。
「どうしようかしら」とビビアが答えた。彼女は空を見た。どうするかといえばふたつだけ——このままミゲェルを待つか家に帰るか——それだけだった。
「あっ! エミ見っけ!」その声はナミオだった。ナミオの声に驚いたのはエミではなくビビアだった。
 ビビアが思わずいった——「あら、かわいい子」
 ナミオは寸分の間もおかずにビビアの声に反応した。ナミオがほとんど張り裂け気味に発した言葉はこんなものだった——「うるさい、ババア! 何がかわいいだ! この低能! 空っぽ! ○△□女! ×××でも食らえってんだ!」
 ビビアは卒倒した。背中は壁にもたれ尻はスチームの出っ張りから滑り落ちた。

 ビビアが正気に戻ったとき、目の前にはマリアとカンイチの顔があった。そしてすぐに寝ている自分に気がついた。ビビアが重そうに口を開いた。
「ごめんなさい——あんなにいわれたのは久しぶりだったの。ババアなんてすごいショック」
 カンイチがいった、「あんたまずいこといっちまったんだ」
「ここはどこ?」とビビアがいった。
「更衣室よ。そしてあなたが寝てるのは長椅子」その声はマスターだった。だがマスターの姿はビビアの視界になかった。「——まったく世話がやけるわね」それはマスターの声だった。「男を出せっていったりワインは飲むしおまけに倒れられちゃ——うちは救護院じゃないの」
「まだミゲェルはいないの?」
 マスターがあきれ顔でいった、「いないわ。あんたも良い年みたいだしあんな男忘れちゃったら——あんまり追いかけてるとババアになっちゃうわ」
 ビビアはまためまいがした——「そのババアってやめてくれない?」
「——まあ、とにかく落ちついたら帰った方がいいわよ。メトロまで行けなくなるわよ」ドアを開ける音がした。マスターが部屋を出ていった。カンイチはマスターが出ていくのを必要もなしに見届けた。そしてビビアにいった、
「あんたメトロに帰るのか?」
「それしかなさそうね」ビビアが消沈した顔でいった。
「オレもいっしょに行くよ——教えてほしい場所があるんだ」
 ビビアは意外そうな顔をした。が表情を戻すといった、「構わないわよ」

 ビビアがもう気分は治ったとカンイチにいい、二人は適当に身繕いを直して更衣室を出ようとしていた。ナミオはふてくされ部屋の角に座りこんでいた。カンイチがマリアにいった、
「ナミオをお願いするよ」マリアが頷いた。そしてカンイチはゼンジを見た。そして小声で、
「あ、ありがとう——ハマグチ?——さん」
「アユム——いやハマグチゼンジだよ」照れているカンイチに呼応するようにゼンジも照れ気味だった。「気をつけてな——それから何かあったら連絡を来れ」
 カンイチはビビアと部屋を出た。部屋を出るときにカンイチが思い出したようにいった、
「ゼンジさん、マリアを送ってってください」
「余計なお世話だよ」——マリアがいった。

 ♭13 帰り道の会話

 カンイチとビビアはホームへ向かった。その道すがら、ビビアの身体は自然とカンイチに寄り添っていた。ビビアの染めた髪の毛がカンイチの頬に触れた。カンイチはそうされることに慣れていなかったが悪くないと思った。背中がかゆくなってこそばしかった。
「わたしなにか余計なこといったのかしら」ビビアがカンイチに訊いた。
「あんた——いや、あなたナミオに『かわいい』っていっただろう」
「——いったわ」
「それだよ」
「『かわいい』がなぜわるいの?」
「あいつはそう教えられてるんだ。ナミオにとって『かわいい』はひどい言葉なんだよ」

 空には月が二つ、ときに三つあった。その中のひとつは本物の月だとすると他はなんなのか——それはバルーンだった。といってもコンドームではない。空に浮かぶ白色のライトを浴びたアドバルーンだった。

 マリアはアドバルーンを見ながら歩いた。彼女の横には少し離れてゼンジがいた。
 ナミオはもう部屋まで送っておまけにベッドに寝かせつけてきた。ノリコさんは「今日はまだ稼ぎがない」といってお客をとりに行った。
 マリアがいった——「わたしあんたみたいなおやじとつきあったことないんだよ」
「どんな?」
「いばってないやつ」
「何に対していばってるやつだ?」
「仕事とか世間とか——最近のオヤジってさ悪いことしかいわないんだよ。この世はもうおしまいだとか、景気はますます悪くなるとか。そうしたあげくは若いもんはなっちゃいないとか、自分がこの世の中をあきらめた化石だってのをたなにあげて勝手なことばかりいってる」
「——化石?」
「そう化石よ——もうすっかり固まっちゃって息もできなくてみずみずしさのかけらもない。あいつらオヤジは顧みることしかしらない」
「でも若い奴等にも古いことばかりいうやつがいる」
「そういうやつもいるけれどあいつら頭腐ってるのよ。温故知新なんてさ立派な言葉があるけれど考えものだよね。新しいことをやるってのはとっても難しい——この世はホームにある時計のスピードを何百倍にもしたような早さのなかでする競争よ。——かっこいいロックンロールが思いつく? かっこいい小説は? かっこいいスターは? 歌は?——みーんな昔の人が作っちゃった。いくら考えても革新的なものができるとは思えないもの——何かまったく、すべてにおいて新しいものをさ——」
「あるんじゃないか? いつか思いつくさ——あるときフッとね」
 マリアが笑った。「オヤジ気が合うじゃん。わたしもそう思ってる。結果は焦っちゃダメなのよ。だからとにかく絶えず何かを考え続けること、それから——」
「いやなことはしないことだ」
「そう! そうよ——悔しいけどバレたな」
「なんで悔しいんだ?」
「わたしがオヤジと同じ考えだなんていったら年までいっしょだと思っちゃうじゃない。わたしはまだあんたみたいなオヤジ——いやオバサンになりたくない」
「それはちがう、オレが若いのかもしれない」ゼンジはいった。そして思った——『オレも化石だ——ちがった意味でね』
 マリアとゼンジは身体が触れそうになりながらまた離れる——それを繰り返しながらお互いの部屋に向かっていた。
 マリアはこの時ゼンジが自分の身体を求めるのではないかという予感がした。だがそれは現実とはならなかった。

 それから——
 支配人は苛立っていた。苛立ちながら踊っていた。やっぱりバレたのだろうか——彼はそう思うとやりきれずにまたステップを踏んだ。彼の目はときおり副支配人に向いた——この脳なしのバカものが!
 だが支配人の気分はきれいな正弦波を描いて抑揚を繰り返していた。その繰り返しの中で正弦波がピークを迎えたとき彼はこう思った——だいじょうぶ、すべてうまくいく! もしもダメなら副支配人のせいなのよ!
「副支配人! がんばってるわね! 教団は十二月二十四日に来るのよ。そして集会は二十五日! さあ、はりきりましょ」

 ♭ zzzzzzzzz・・・
 ああ、眠ってしまった。ラダのシートは心地よい。
 そろそろこの話しも終わりになる。少し早口になります。わたしはモーガンである。

 カンイチは母親に会えただろうか? 彼は母親に会うことができた。
 母親はカンイチに会うために内地へと渡ったのではなかった。「誰がおまえみたいな悪い息子とあうかね! 勘違いするのも止めときな」母親はカンイチの姿を見るなりそういった。そしてカンイチの母親はわが家ともいえる管理センターに戻った。
 カンイチはどうしたろうか?——彼は泣いたのだ。母は永遠にまぶたの裏側にいた。

 それではビビアは? ミゲェルはどうなったか?——ビビアはカンイチの母親探しを手伝い落胆したカンイチをなぐさめもできず、独り教団の集会が開かれる日を待った。彼女はミゲェルが教団の手伝いをしていることを知った、そしてミゲェルに逢うことができた。だが当のミゲェルはディアナを侵入者に奪われるさなか、連絡をとるために端末へ向かったが、そこで自ら自分のメール爆弾を受け付けてしまった。彼の小指はいうことを聞かなかったのだ。その爆弾は彼が研究し続けてきた総決算といえるものでその威力は今までの非ではなかった。集会所代わりになった工場は全壊し、他の一般人に混じって死んだ。彼の身体は肉屋にミンチされたようになった。この死に方はわたしにも耐えられない。想像するだけおぞましい——仮にミゲェルがわたしのように宇宙を放浪する身になったとするならばどうだろう、——ああ、彼は短く切断されたミミズのような姿でこの空間をさまようのだ! 誰が彼を人間だと気づくだろう!
 幸いにもビビアは生きた。彼女は自分の身体に軽い——ほんとうに軽い火傷を負っただけですんだ。彼女は遠洋漁業に出る中型の船に乗り自分の国へと出発した。それでもこれは残酷な話しだ。荒々しい男だらけの船で彼女は耐えられたのだろうか? (——これは移民の女性が国へ帰ることのできないひとつの理由である)。

 アヤベ・クミは自分の娘エミに逢った。クミはその後自殺を計った。そして自分の目的をまっとうした。クミは表情のないエミを見て自分の失敗に耐えられなくなったのだった。エミの父親は自分が造りだした精子だった。その精子には感情が欠落していた。
 エミはロマンで働いている。といってもただ座っているだけであるが。

 さてイサオ・セキグチは?
 彼はいちばん信用できる友だちに自分の政権を譲った。それの友だちとはハルさんである。ハルさんが困り果てたのはいうまでもない。ハルさんはイサオ・セキグチの座っていた席に座らされている。

 さて♪——

 ゼンジはどうしたか——彼は生きていた。ゼンジは集会所に現れた。ここにディアナがいるはずだ——そう信じていた彼はステージに立っている張りぼてのモンローの中にディアナを見つけた。彼女の泣き声が聞こえたのだ。彼は冷静に様子を見計らい、ディアナがコントラバスのケースに入れられるところ目撃した。彼はコントラバスを奪った。彼は果たして独りでそれを行ったか?——ほとんどが独りだった。ある一部分でノリコさんが助けてくれた。それは監視員をたぶらかす仕事だった。彼女はこういってのけた——「ディンギはいらないわよ♪」

 それからのゼンジは? ディアナはどうなったか?
 わたしの目の前にぽっかりと穴が開いた。それはマーレー・フラスコの目につながっていた。
 マーレー・フラスコは病床にあった。彼はベッドの中で、ディアナが誘拐されたことを知った。カンジェロが教えてくれたのだった。
 マーレーはトランスポータでニッポンに行くことを思い立った。が、彼の身体は衰弱しきっていた。トランスポータは身体の病巣を取り除く効果があった。だが、トランスポータはその存在をまだ公にはされていなかった。
 病床のマーレー・フラスコのもとに、モーガンが立った。
「ボスはもうご存じですか? ディアナが誘拐されたことを」
 マーレーはそれには答えなかった。
モーガンか?——生きていたのか」
「いや、死んでます」
「どうやってここに来たんだ」
「ラダに乗ってきました」
「ラダ?——」
「この惑星が作りだしたリサイクルの利かないかわいそうな生産物です。いまじゃもう生産中止ですけれど」
 ディアナの母親は泣いている、とわたしはいった。わたしは目の前に小さく開いた穴がナディアの目だとわかった。小さな穴が開いたということは、彼女が狂いかけているということだった。
「そうだろうな——」
 わたしは少し悲しくなった。「ボス、トランスポータをナディアやゼンジたちに貸してやってくれませんか。彼らは会いたがっているんです、——お互いに。それから——」
 わたしがそこまでいうとマーレーが口をはさんだ。「ディアナを母親のもとに帰して欲しいのか?」
 わたしは正直おどろいた。それこそがわたしのいいたかったことだったから。わたしは黙った。
「わたしは悲しい——誰もディアナを火星人と認めてくれない」マーレーは閉じていた目を開いた。その目は真っ赤に充血していた。「わたしは悲しい」
 わたしの目の前でベッドに横になっている老人は『悲しい』を二回くり返した。その言葉はわたしにとって興味深いものだった。なぜなら、わたしはディアナに対し、『あわれみ』はあっても、悲しいとは思わなかったからだ。
「なあ、モーガン。なぜ誰もディアナを火星人と認めてくれないのだ」老人がいった。
 わたしにはそれに対する答えがあった。それはどれだけディアナを検査し、研究し続けても、地球人との類似点ばかりが現れるためという、成果によるものだった。しかし、もしわたしが、わたしの知っている限りの返答をしたところで、この老人はまた同じことを聞き返すだろう——、「なぜ誰もディアナを火星人と認めてくれないのだ」
 マーレー・フラスコの期待する答えはちがうのだと思った。
「ディアナは火星からやってきた可愛い天使だ。あの子は地球人の期待と希望に包まれて、アホな地球人を火星へ連れていってくれるはずだった」
 わたしは思わずいってしまった。「ディアナには——あの子には火星人的な魅力を——いったい火星人的魅力とは何か知りませんが、それをひとつも地球人に見せることができないんです」そして、「あの子は地球人の欲求を満たすことができないんです。あの子に魅力を感じている人は、ほとんどが母親かおばあちゃん——老人たちなんです。自分の娘か孫のように思ってる」
「確かに——」老人の声はかぼそかった。「彼女は何もしゃべらない。火星がどんなだったとか、花が咲いているとか。国民はそれを知りたかった。——異国へ旅に出た人の土産話を聞きたがったり、本を読んだりするように」マーレーはせき込んだ。「あの子は自分の母親や、父親たちのことを話すこともできなければ、自分が何者であるかを語ることすらできない」
 わたしは何もいえなかった。
「そして、何より——」マーレーの口から力無い言葉がこぼれた。「——国民が失望したことは、ナディアが独りぼっちだということです。国民は、火星人が薄情ものだと思っている——小さな子を独りぼっちで火星に置いていくような。あの子には家族がいない。われわれの国民には家族が必要なんだ。ニッポン人と違って」
 わたしは頷き想像した。三人の親子、アユムとナディア、そしてディアナが宇宙船のタラップから降りてきて、地球人の歓声に応える姿を——そして彼らはいうのだ、『わたしたち家族は火星から来ました。これからわたしたちの住む火星の様子を教えてあげましょう——』
 マーレーが続けた。「あの子には荷が重すぎたのだ。だがあの子は自分に期待がかけられていることすら知っちゃいない」
 わたしは軽い冗談のつもりでいった。「へたな役者でも雇えばよかったかですか?」わたしに対する気づかいからか、ベッドの中の老人は初めて笑みを見せた。わたしは続けていった、「どなたがよかったですか?」
 老人がいった——「父親の番組に出ていた火星人」
 マーレーがいった火星人とは、父親ジョセフがプロデュースしていたテレビ番組、『アストロノーツの宇宙冒険』に出ていた足が八本ある着ぐるみの火星人のことである。火星人を演じた役者は、その番組がラジオ放送だった頃から出演していた男で、番組がテレビ放送になってからは着ぐるみを被って火星人を演じていた。その時の彼はすでに五十一歳だった。だが声はカナリヤのようだった。そのカナリヤも今は土の中だった。
「ピー、ピッピッ・ワタシハ、カセイジンダ」マーレーがそのカナリヤの声を真似しながらいった。
 そしてマーレーはわたしにいった。「独りじゃ何もできないものだ。——火星のコロニー開発の進捗はにぶい。わたしがまだ現役のころは無人調査船を送ったり、建設資材を運ぶルートを作り上げた。ところがどうだ、最近じゃ、ノコギリひとつ送っちゃいない」
 その原因はトップ交代だった。マーレーがビルに企業のすべてを引き渡したときから、企業の方針は変わりつつあった。宇宙規模のインフラとしておこされた火星事業は当初、各国の協力のもと、大規模な委員会が結成され順調な滑り出しを見せた。だが、変わることのないディアナと、もう後のないところまで迫られた環境破壊は、各国をその事業から撤退させた。今では、ディアナの養育と研究にあたる予算さえ、当初に比べれば大幅な減少を見せていた。火星コロニーは、いくらWC—COMといえど、その企業ひとつの手で進めることはできなかった。
 各国はディアナへの懐疑を深め、火星事業から撤退していた。
 わたしはマーレーの気の済むように、悪態めいたことをいった「まったく地球人は、自分に見返りがなければ、座っている席から立とうともしない」そして、「彼らがすることといったら、わたしたちの国が建造した宇宙船にシールを貼らせてくれ——それだけです」
 わたしはなだめるつもりでいったが、それはなんの慰めにもならないようだった。老人はまたいった、「独りじゃ何もできない」
「ボスには立派な息子がいるじゃないですか」わたしのいった『息子』というのは、ビル・フラスコのことである。
「あいつは宇宙にはなんの興味も抱いてはいない。開拓する精神がない。誰かがそういう土壌を作れば、あいつはすぐにそれを自分のもののように乗っ取ってしまうだろう。頭がいいからな。そういったことには妙に鼻が利くみたいだ」
「土壌ならボスが用意したじゃないか——わたしたちは火星人を創造したんです」
「息子はあの子を火星人とは思っちゃいない。それに宇宙には興味がないんだ」
「そうでしょうか——ボス、あなたの息子は毎日のように衛星を打ち上げています。わたしはときどきぶつかりそうになるときもあります。ボスが彼に一言いってあげれば考えも変わるんじゃないですか?」
 マーレーはゆっくりと首を横に振った。「あいつが宇宙に衛星を打ち上げるのは、衛星とは宇宙に打ち上げるものだからだ」マーレーが痰の絡んだ咳払いをした。「もうわたしに口を出す権利はない。すべての職権はもうあいつのものだ」

 わたしはトランスポータのことを訊いた。マーレーはあれをいったいどうするつもりなのか。
「誰にも公表していない」口をはさもうとするわたしを老人は制した。彼の続けた言葉はわたしがいおうとしたことだった。「だが秘密はいつかばれる、色々なルートで。開発に関わったやつも、金に困れば何をするかわからんしな。だから公表するつもりだ。『きのうプロトタイプが完成しました』って」
「それができればみんな宇宙に行きますよ。ボス、あなたの夢は、計画は現実のものになります」
「そうだろうか?」
 ボス、いやマーレーが懐疑的になっているように、わたしにもそれは疑わしかった。地球人は、特にある程度の権威を持つようになると、一度破棄もしくは延期した計画を振り返ろうとはしないからだ。
 わたしはいった、「今、トランスポーターはどこにあるんです?」
 マーレーは礼儀正しい男だった。彼はわたしにトランスポーターの場所を教えてくれたあと、遺言のような言葉を残して静かに息を引き取ったのである。
 マーレーは最後にこういった。
「あの子を助けることができるだろうか」
 きっとできる、——わたしはそういった。

 わたしはゼンジにテレパシーを送った。わたしはゼンジに逢うことができなかった。わたしにはゼンジと話す勇気がなかった。そこでわたしはゼンジの脳にあつかましくも指示といえるテレパシーを送った。

〈自分の故郷へ帰れ! 自分の故郷へ帰れ! そこには試験管がある——〉

 コントラバスを抱えたゼンジは自分の故郷へ戻った。わたしがラーメンを残した店はもうなくなっていた。WC—COMの工場へはなぜかなんの障害もなかった。それはそうだすべてはお膳立て済みであったから。
 試験管——トランスポータを見たゼンジの気持ちはどんなものであったろうか? わたしはさぞ複雑だったろうと思う。わたしはトランスポータの操作に関する必要な情報をテレパシーでゼンジに指示した。
 しかし——ゼンジはわたしが送ったテレパシー中でひとつだけそのとおりにしなかったことがある。
 ゼンジはトランスポータに乗らなかった。彼はディアナだけを乗せた。——これはわたしの想像しなかったことだった。

 トランスポータはナディアの元へとディアナを運んだ。丸裸のディアナを。

 わたしのラダはまだまだ乗れる。

(続く)